FunkyJam

最初に!ファンキージャム情報の現状

ブレイクダンスやヒップホップの事がサイトで紹介されていますが、日本のヒップホップの始まりはファンキージャムです。1983年に映画「ワイルドスタイル」が日本で上映される前から活動していたからです。

ブレイクダンスはDJとラッパーが一緒にライブしなければ、ヒップホップのダンスとしての魅力は無いと思っていました。

そこで、スクラッチのできるDJを探していました。偶然レコード会社のイベント会場だったディスコのDJがモンチ田中だったのです。

彼もスクラッチを生かせる場所を探していたので、即メンバー入りしました。ラッパーは基地のラップ上手が友人でしたので、休日に参加してもらいました。

その活動はロックスタディ来日以前からで、ブレイキングを取入れてからは企業イベント、TV、映画「ブレイクダンス」、「ブレイクダンス2」の映画の公開と並行して活動していました。

歌手のバックダンスは本来のブレイクダンスのショーではありません。しかし、その頃の日本はブレイクダンスを知らないので、宣伝になればと思い全てをやると決めていました。

それは、日本ではあまりにも早く、子供達の理解を超えていたのです。米国で急速に流行が終わり日本も取上げられなくなりスクールが閉校したことで、現在ファンキージャムが知られていないのです。

1986年のファンキージャムの閉校後、原宿などのストリート系が現在活動していて、パフォーマンス性の高いものだけや無縁なダンスを取込み、今では違うスタイルになっています。

ポップロックもポッピングの強さだけでは昔に逆もどりです。それにマジックや映像とコラボのパフォーマンスではダンスとはいえません。メディアは話題だけを紹介して本質には関心が無いのです。

ブレイキングも回転だけに特化すればダンスとは言えず、体操出身者が有利な運動になってしまいます。ダンス人口の維持のために、無縁なものと混合したショーや競技化していることに危惧しています。

ブレイクダンスは音楽を無視してもショーの効果があります。それが間違いでもあります。ヒップホップするなら、DJやラップとコラボしたスタイルでやらなければダンスとは無縁になってしまいます。

ある程度の技術を超えてからダンスを踊る事ができます。できるだけでは運動です。そして環境が良くなければ本当のダンスは育たないのです。

未完成ですが、あれほど早くショーをする事ができたのはファンキージャムのスクールが、すでにあったからと思っています。

ヒップホップとはファンキーすることで形式を壊して格好良くしものなのです。音楽の違う芸能界のショーダンスでは間逆のダンスになります。

ヒップホップと無縁の歌手のバックダンスやパフォーマンスだけのブレイクダンスはキッズダンスです。 幼稚な事と本物を知らなければ、日本の若者文化に未来はないでしょう。

 

 

1983年にTV11PMで紹介された映像のカット、TVで初めてSOULDANCEの名称でスクールが紹介された。


ファンキージャム・ブレーカーズの活動

1983年からファンキージャム・ガールズと一緒にレコード会社のイベントなどでブレイクダンスのエレクトリックブギ(ポップロック)を紹介していました。

テレビ朝日のなんでも日本一テレビ出演しましたが、まだファンキージャム・ブレーカーズとして活動する以前でした。その頃はブレイキングの練習を始めたばかりで完成度の低いものでした。

その後、十数名が練習に参加するようになりました。渋谷公園通り「メトロ」の店長の協力で毎週ショータイムをさせていただいたことで、その後の活動の成功に繋がったのです。

狭いスペースでショーをした事で、何処でも対応できるようになりました。

1984年春に、フジTVスポーツフェア、ミズノスポーツのブースで出演が決まり、約1週間、1日数回のブレイクダンスショーをスクラッチDJとラッパー、総勢十数人で公開しました。

その頃、日本では誰もブレイクダンスショーをしていませんでした。DJとラッパーとでブレイクダンスのショーをしたのは、ロックスタディ来日以降、日本では初めてなのです。

この時、多くの芸能界の関係者や企業に存在を知られるようになったのです。

この後、コカコーラ、J&J、パイオニアなど企業イベントやTV出演が増え年間400回を超えるショーを公開しました。

映画「ブレイクダンス」がナイキの製品を使用していたので、当時、日商岩井の代理店だったナイキと衣装提供の契約したことで、ナイキの全国イベントに参加するようになりました。

映画「ワイルドスタイル」の宣伝活動、映画「ブレイクダンス」と「ブレイクダンス2」のパンフ作成、公開イベント、記者会見、公開日の映画館内で特別出演ショー等をしました。

歌手のバックダンスやTVショーに参加、テレビ東京のおはようスタジオでは毎週10回ブレイクダンスのレッスンをして話題になりました。

1986年のダンススクール閉校まで多数のイベントやTVに参加しました。

米国でブレイクダンサーの利益還元の問題や、回転に特化したダンス上手が増えた事で個人のパフォーマンスに限られ、ヒップホップのショーがマスコミやTVで使われなくなって急速に注目されなくなりました。

始めるのが早ければ終わりも早い。一般では理解を超えていたこと、その頃の若者がまだ追いついていなかったのです。流行が終わるとスクールもダンスの興行も成り立たなかったのです。

マスコミやTVが取上げる事がなくなったことで、流行しか興味のない一般人は、ファンキージャムの活動も存在も忘れてしまったのです。

その後、再びストリートで遊んでいた人達のパフォーマンスを取上げるようになったのです。それが何故か日本のヒップホップになったのです。