DJ

ファンキージャムの初代DJモンチ田中は、日本初のスクラッチDJで最初のブレイクダンスのDJです。そしてDJミックスのパイオニアでもあります。

スクラッチのDJを探していた私は、自称や他薦のスクラッチをできる人に会ったり聴きに行ったりしていました。まだ日本製のスクラッチのミキサーが販売されていない時でしたので、米国のヌマーク製のミキサーでスクラッチしていました。しかし、誰もが残念な結果でした。

ディスコ(クラブ)DJの方が技術は上です。でもクロスフェーダー付のミキサーでは無く、大きな業務用のミキサーだったので、スクラッチの練習は難しかったのです。

当時、職業DJ(クラブDJ)は曲と曲をつなぐ事を目的としていて、その他の複雑なミックスやスクラッチして曲を作る事はしない時代でした。スクラッチの完成度も悪く多くのクラブで禁止されていました。

そんな時、ファンキージャムがレコード会社の新曲発表イベントに参加したディスコで、スクラッチの上手なDJがいると知り、聞いて驚きました。

DSTのロックイットのスクラッチのパーツを完璧にやっていたのです。それも業務用の縦のフェーダーでやっていたので、ファンキージャムのブレイクダンス・クルーの参加をお願いしました。

彼もスクラッチの可能性を求めていたので、即決定したのです。

DJ モンチ田中

場所 渋谷ラ・スカラ?
業務用ミキサーでスクラッチをする。
同店でファンキージャム・ダンスイベントの時に撮影した写真。

その頃、モンチの店は一般の若者向きのディスコで Amblap とは無縁でした。スクラッチや米国で流行っていた Amblap のDJミックスを活用できなかったのです。

私は当時、Amblap のダンス向きレコードを多数所有していましたので、米国のWBLSやKissFMの使用の曲でミックスを練習することが可能でした。

それに、数ヶ月後に日本製のスクラッチミキサーが販売されるのを知っていましたので、私がファンキージャムのミキサーにクロスフェーダーを取付け練習してもらいました。

場所 渋谷 ビッグアップル?

ファンキージャム・ダンスイベントでスクラッチショーをする。
日本人のほとんどがスクラッチしている事に気づいていない。

そのミキサーで幾つかのイベント・ショーやTV出演もしてもらいました。その同時期から基地の友人にラップしてもらっていたので、スポーツフェアの頃には全員でできるような体制になっていました。

その後、多くのイベントやTV出演、レコード制作した事でFM放送等から以来があり、DJミックスの仕事が舞込んだのです。

場所 CBSソニーでレコーディングの練習風景。

真っ先に私に制作会社の設立の話がありましたが、企画営業運営等の全てを一人でやっていましたので、時間的な余裕はありませんでした。その上、経済的余裕も無く、会社設立などはあり得ない状態でした。

ファンキージャムを踏み台にジャンプアップしてくれた方が嬉しかったです。

しかし、その後は大変でした。

スクラッチするDJがいなければショーの効果はなくなります。BGMではブレイクダンスの魅力は無くなるからです。

その頃から参加が難しくなったので、私が練習してやるようにしました。その頃はDJと連携してダンスのパターンや終了のスクラッチパターンを決めていたので大変でした。

 

しばらくして米軍のシベリアンだったデジィレイがやりたいと言ってきたので、参加してもらうことに決めました。あのまま私が続けていたら活動に問題が起きたので、大変助かりました。

1984年にビデオ制作を始めた時には、モンチは独立してデジィレイがDJでした。ビデオのBGMの制作をお願いしました。

スクラッチやミックスでビートは制作できてもメロディの制作は未経験だったのです。しかし、ビデオのBGMは必須でした。撮影当日に製作したのが、FunkyJam の曲の第一号となりました。